| 私が、体のことを紐解き始めたのは、かれこれ30年前の学生劇団で、芝居をやっていたころに遡ります。
芝居について、言及するのはここでは控えますが、とにかく苦しい作業でした。 常に自己否定し、自己矛盾で、いちばん大切ないのちまで否定する日々でした。 (その後この経験が、いかに自分の今を作っているか感じたわけですけど)
小さな小屋でやっていた舞踏を見たときに、自分のやりたい表現に近い気がして、 劇団をやめ、舞踏の稽古を手探りで始めました。 誰のものともわからない、ヨガの本1冊と、マラソン。 小さな小屋で舞踏の稽古。 何時間もかけて、1メートルをあるくこと・・・ 床に落ちた埃を何時間も見入ること・・・ そんなことしていると、しまいには体が溶けて、からっぽになっている肉体だけがありました。 今で思えば無に向かうための瞑想でありました。 でもそれは小さなころもやっていたことでもありました。
小学校に学校に行けずに山の中にあった、防空壕?で、たたずんでいたこと もっと小さなとき生まれ故郷の富士山の風穴で、暗い岩を見入っていたこと。 たどりついたのは、そんな幼少の原風景でした。
ヨガを教え始めたのは、それからら、また何十年も経ち、子供4人目を授かるころからです。
私が、病について、言及できるはずもありません。 でも少なくとも私の体を紐解き、皆さんと体を向かい合わせていただいていると 私の体の中を見つめていると、からだなかの自然に出会い、体の細胞が知っているいろんなことに出会い、、それからつながって、一緒にストレッチしているいろんな皆さんの体と共鳴していることにきずくのです。 これが気だとおもいます。 体は、心とともにあって、どちらが主導権を持つかは。ケースバイケースのようですが、時には、雨も降り、嵐のようにも荒れ狂い、どよんと曇天、すこーんと青空・・・なんて、しょっちゅうころころ変わっています。
<体との対話1>
小さな種になって、体を縮めて見ます。おしりの穴も、髪の毛の先も、 背骨ひとつも、足の親指も、骨も皮も・・・・ みんな息していることを実感するまで、縮こもります。 水の音を聞きます。風の音を聞きます。
こんどは、天に伸びていって 縮こまっていたものが、ゆっくり伸びてゆく感じで、 手も、足も、背骨も首も、ありとあらゆる骨と、皮が、 ゆっくり伸びてゆく感じ。 ひとつひとつゆっくり味わってみます。
この拮抗するうごめきで、かなり神経が伸び、体の自然の音にびっくりすることがあります。できたら、集中できるときを見計らって時間かけてやってほしいです。 体はいろんなアンテナを張っています。 体は本来の自然なつながりを求めています 内側でも、外側とも。
たとえマイナスのときも、感じるものをしたためて、たいらに暮らす。 いい出会いがあったり、どきどきしたときは、いい気を一杯もらって体中に流してあげる。 こんな生活のやり取りをして、子供たちと暮らすありがたさをかみ締めています。
取りとめもない書き方で、すみません。 少しづつ、気について、自分が思うことをしたためていけたらいいなと思っていますので、よろしくお願いします。
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